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2003年6月「月刊なごや」7月「月刊ぎふ」掲載記事
巻頭座談会「やっぱりジャズが好き! 」

Dr.JAZZ・内田修さんを囲んで、親しいジャズ仲間が集まりました。楽しいジャズ談義の始まりです。

河合
 内田先生の地下(スタジオ)には数え切れないほど行ったけど、あそこはよかったねぇ。
藤井
 私も目に焼き付いてますよ。
内田
 富樫雅彦君がうちに来たのは13〜14歳だったかな。その頃からパーカッションの腕は日本一と言われていたけど、ずっと居候してた。
 皆ほったらかしなんだけど、なんか来ちゃうんだよね。まあ、家族みたいなもんだから。
藤井
 居心地がいいんですね。内田先生のスタジオで日本中のジャズメンが使ったピアノが、いまは私のスタジオにあります。大事にしていますよ。

 コレクションの一部は寄贈されて、ジャズ資料館(岡崎市羽根町・シビックセンター内)になっているんですよね。僕も行きたいと思いながら、実はまだ行っていないんです。
内田
 そういうものがあるというだけで嬉しいね。
河合
 あそこにあるレコードと資料は、確実にいいものが揃っている。素晴らしいですよ。しかも個人で持っていらっしゃったから、本当にいい状態で保管されている。
内田
 大事にしていたから、それは自信があるな。でも好きなレコードは100回くらい聞いたよ。
 実は内緒で、サボイの4枚組の10インチをうちに置いてあるの。「ちょっと必要があるから」と言って“貸して”もらったんだけど、だんだんバレてきてね。いずれ戻します(笑)。でもそれは、見ているだけで嬉しくなっちゃうんだ。

【ラジオから聞こえたジャズ】
内田
 僕がジャズを聴き出したのは、戦後すぐ。レコードはなかったからラジオ。NHKの『スイングクラブ』という番組で、毎週土曜日の30分、それが唯一の情報源だった。
 いまだに感謝しているのは、解説なさった河野隆次さんはトラディショナルジャズの専門なんだけど、それだけに偏らず、当時アメリカで皆が聴いていた最先端の音楽を紹介してくれた。そのご縁で、河野さんがジョージ・ルイスを日本に連れてきた時は、僕が主治医になったよ。
 プリザベーション・オールスターズが岡崎に来た時、芸者遊びに連れていったら喜んでねぇ(笑)。こんなこと話してたらキリがないなぁ。次、藤井先生どうぞ。
藤井
 実は小学校5年生でラジオを作り始めて、そこから聞こえてきたFEN放送で、ジャズを覚えました。その頃の自慢は、音を聴くだけでバンド名が言えたんです(笑)。
 高校時代は、ジャズクラブ「コンボ」(名古屋市伏見)にいりびたりになりましたね。先生にバレて職員室に立たされました。
内田
 悪い奴だなぁ(笑)。
藤井
 (笑)そんな高校生活でしたから浪人しまして、東京行ったらジャズ漬けですよ。その年の暮れに穐吉敏子さんが留学前の「さよならコンサート」を渋谷でやりました。コンサートが終わって屋台で飲んでいたら本人がいらっしゃって、初めてお話したんです。益々のめりこみましたね。
 大学時代にバンドを始めて、全国軽音楽コンテストでは、東海地区47チームのなかで優勝したんです。東京行ったら、一発で落ちましたけど(笑)。
 その後医者になって2〜3年目に、大阪のフェスティバルホールに出してもらう予定が、伊勢湾台風で流れたんです、それが切れ目。川にスティックを捨てて、一旦ジャズから引退したの。
 でも26年たって、やっぱり戻ってきましたね。いまもドラムを叩いています。

【ジャンルを問わない本物の音楽】

 元々はコンピューターエンジニアで、その後営業職などもやりましたが、4年前、うちの会社が突然ビルを買ったんです。
内田
 その時にブルーノートをやるっていうのは…。

 決まってないです。「あのスペースを使うにはライブハウスがいい」とある方に言われまして、投資した分にみあう箱といったら、ブルーノートしかなかったんです。交渉は1年くらいかかりましたけど、お陰様で契約が進んで、店がスタートしたのは昨年11月30日。だからジャズと関わるきっかけは、純粋に仕事ですね。
 僕らの世代は高校・大学と、やっぱりロックでした。アース・ウィンド&ファイアーとか、エアロスミス、ローリング・ストーンズ…。
内田
 アース・ウィンド&ファイアーは、スイスの「モントルー・ジャズ・フェスティバル」に出演していましたし、名古屋公演は忘れられませんね。

 そうなんですか!
内田
 だからジャズとかロックとか、区別する必要はない。いいものはいい、ダメなものはダメ。スタイルは関係ないんだね。
 現代音楽を代表する武満徹さんや高橋悠治さん。彼らと会うと、ジャズの素晴らしさを真剣に語ってくれる。以前武満さんに「一番尊敬する音楽家は?」と聞いたら、「デューク・エリントンだ」と答えたからびっくりしたね。
藤井
 アンドレ・プレビンというと、今ではロンドンフィルの音楽監督として有名ですが、68年までの30年間ハリウッドで活躍し、「マイ・フェア・レディ」などを作った、れっきとしたジャズピアニストです。交響楽団を指揮するかたわら、ジャズのCDも発表しているのですよ。  世間の一部では、ジャズよりクラシックの方が上なんだという先入観があるけど、ちゃんと高等教育を受けているんだし、クラシックと同じ。むしろ血の出るような練習をやっているのは、ジャズメンの方ですね。
内田
 この前NHKテレビのインタビューで渡辺貞夫君本人にも言ったんだけど、「君こそ現在世界で最も優れたジャズのアルトサックスプレーヤーだと思う」って。僕はお世辞でなく、本心そう信じているんです。それくらい日本の一流のジャズミュージシャンは素晴らしいですよ。

【名古屋のステージから全国へ】
河合
 大学時代に知り合った友達に誘われて初めてジャズを聴きに行き、すっかり好きになりました。
 金はないし、ミュージシャンにはなれないけど、ジャズ喫茶くらいだったらできるかなと考えて、大学出てすぐ松本で始めたんですが失敗した。東京に戻るのもみっともないし、「知っている奴が誰もいないところに行こう」と思って、名古屋に来ました。
 女子大小路で昼間はクズ屋をやって、夜はスナックのチーフ。当時コーヒーを飲みに通 ってた、10坪でトタン屋根の店があって、ある時そこの女主人から、「この店買わない?」って(笑)。「月賦でしか払えないけどそれでもいいなら」ってジャズ喫茶を始めました。
 最初はライブじゃなかったんだけど、やってるうちに、ジャズシーンがフリージャズに入っちゃった。クリエイトする現代音楽にあわせるには、やっぱりライブですよね。2週間休んで、裏にあった3畳の部屋をぶっこわして、18万位 の安いピアノを中古で買い、ドラムセットをいれたんです。
 一番最初のライブは、梅津和時と近藤等則、土取利行。
内田
 いま思うと大変なメンバーだね。
河合
 3人に2万円のギャラ。泊まりは僕の部屋。食い物はうどん(笑)。
内田
 休憩所は隣の原っぱね。ミュージシャンが原っぱで裸になって汗をふいてるの。その光景はいまだに忘れませんね。そのうちに、仕事を終えたミュージシャンが寄るようになってね。ラブリーは汚かったけど(笑)、ジャズは格好じゃないからさ。
河合
 汚いなんてもんじゃないですよ。客の椅子はビールケースを逆さにして使ってた。
内田
 天井が落っこちそうだったしね。でもその時に、いまの日本のジャズを作ったミュージシャンたちが、ラブリーに行ってたんだよ。
河合
 仲間ですね。
内田
 だからいまも続いているんだよ。堀君もそういう先輩を見習って、いろいろ教えてもらうといいね。

 はい。
内田
 (綾戸)智絵ちゃんも皆の努力であっという間に有名になっちゃったけど、最初に演ったのがラブリー。
河合
 ケイコ(リー)は、うちの従業員が結婚した時に花嫁の友達として、はなむけに弾き語りを歌ったんですよ。その時にすごくうまくて、びっくりしたの。それで2〜3ヶ月うちのステージに出てもらって、それからですよ。内田先生も応援してくれて、僕が1年間マネージメントやったんですね。
内田
 ニューヨークまで連れていったもんね。河合君がいなかったら、ただのピアニストだった。
河合
 才能があったんだよね。
内田
 ケイコちゃんの『イマジン』はどこにいっても通用する、世界一級だね。
藤井
 うちにも李敬子で来てますよ。初めて来たのは、93年6月。その前に彼女の伴奏もやったことがあります、遊びですけどね(笑)。

【ジャズを聴かなきゃ勿体無い!】
河合
 僕はね、ジャズがクラシックになっていっちゃうのが嫌で嫌でしょうがないの。いまの音楽として、ずっと元気で進んでほしい。そうじゃないとやっている意味がないからね。
 この前なんか、最後に集まってきたミュージシャン5人でサックスをバカーンと吹いて、面 白かったですよ。

 見たかったですね。自分はまだ、そういう時に巡り合えていないんです。
内田
 これから長いんだから大丈夫。

 頑張ります!
河合
 クラブやっているといつも採算の問題があるけど、最終的にどこまで踏みとどまれるかは、ジャズに対する好き嫌いになってきちゃう。「自分が他で稼いできますから、赤字でもこれやります!」って。慈善事業じゃないんだけど、好きなことやるにはそれしかないもんな。
藤井
 私が主宰するスタジオFのコンサートも、90回を数え、かなり疲れてきましたね(笑)。でも今までに出演を依頼したグループはひとつもない、全部「やりたい」ってきたグループばかりなんです。身体がついてく限り、続けたいと思っています。
 やっぱりやる以上は聴きに来てほしい、わかってほしいという思いがあって、同好の人たちを少しでも増やしたいんですけど、難しいですね。
内田
 ジャズは、好きな人が周りにいて「一緒に行こう」と誘ってくれないと、最初はなかなか入りにくいみたいだね。でもいまはクラブ側も、若い人が入りやすいような値段の設定など、いろいろな工夫をしていますよね。だから、ジャズファンの層に関しては悲観していない。どんどん増えていくと思いますよ。だって本物の音楽だから、聴かなきゃ勿体無いでしょ。
 僕も、少しでも長生きしてジャズを聴きたいと思っている。そう思うことでまた長生きできるんだね(笑)。

司会 / 編集長・種村佳介 (名古屋市東桜「Club F(クラブ・アッシュ)」にて)


内田修さん
音楽プロデューサー。1929年岡崎市生まれ、名古屋市在住。名古屋大学医学部卒業。学生時代よりジャズの虜となり、外科医のかたわら、ライブ録音やジャズレコードの収集に奔走。ジャズメンとの交流も多く、Dr.JAZZと呼ばれ、親しまれている。10年前、岡崎での開業医生活に終止符を打ち、膨大なコレクションを市に寄贈。現在、同じく岡崎市の羽根町にある「シビックセンター」内に「ジャズ資料館」として保管・展示。

藤井修照さん
藤井医院院長。1937年名古屋市生まれ、岐阜県笠原町在住。名古屋市立大学医学部卒業。大学時代にドラムを叩き始める。全国軽音楽コンテスト東海地区大会で最優秀賞にも輝いたが、その後スティックを捨て、医学に専念。再びドラムに向かったのは、26年後。森山威男の弟子となる。90年には、130人収容のホール「スタジオF」を病院内に建築。以来、2ヶ月に1度の割合でライブコンサートを開いている。また本誌にて「in the jazz」(当HP「Dr-Fujiiの後ろ姿 / Dr.Fujii'sじゃず散歩」でご紹介しております)を好評連載中。

河合勝彦さん
「jazz inn LOVELY」マスター。1944年東京都生まれ。長久手町在住。中央大学卒業。70年に名古屋の女子大小路に10坪のジャズ喫茶をオープン。77年に現在の東区東桜に移転し、以後、毎日ライブを続けている。地元アーティストを中心に若手の発掘にも力を注ぎ、「jazz inn LOVELY」のステージから発し、現在東京で活躍中のスターも多い。市内にほか3店を経営。

堀誠一郎さん
「名古屋ブルーノート」取締役総支配人。1965年名古屋市生まれ。成蹊大卒業。コンピューター関係の仕事を経て、中区栄「マナハウス」地下2階に、ニューヨークの名門ジャズクラブで名古屋初進出となる「名古屋ブルーノート」を、昨年11月にオープンさせた。名古屋のジャズシーンを担う若手として期待される。


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