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手づくりライブ、ジャズ魂演出
森山威男さんら一流プレーヤー出演
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(写真左上)
自身もドラマー。ドラムは「スタジオF」と自宅に置いてあり、気が向くとスティックを握る=土岐郡笠原町の自宅
(写真左下)
「スタジオF」で82回を重ねたライブ・コンサート。ジャズビッグネームの演奏に全国からファンがやって来る=藤井さん提供(ドラマーは森山威男さん)
(写真右)
藤井修照
1937(昭和12)年、名古屋生まれ、64歳。土岐郡笠原町の医療法人修友会藤井医院院長。
名古屋市立大医学部卒。同大では軽音楽部を創部、20代後半の医局時代にはジャズクインテット「ザ・ソウル・ビート」でドラムをたたき、中部軽音楽コンテストで優勝した。
同大医学部講師を経て、笠原町で父親が営んでいた医院を74年に引き継ぎ、地域医療に従事しながら、90(平成2)年に医院横にミニホール「スタジオF」を建設、ジャズを中心に一流音楽家を招いたライブコンサートを始める。ライブは今月16日の「クリスマス・アカペラコンサート」(出演は女声コーラス「XUXU(しゅしゅ)」)で通
算83回を数える。ジャズ以外ではクラシックや詩の朗読コンサートを開いた。
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コンクリート造り、三十五坪(百十五平方メートル)、百三十人収容のミニホールは、日本のジャズシーンの中では知る人ぞ知る存在だ。ここで開かれたライブコンサートは先月までに八十二回。出演ミュージシャンは、マル・ウォルドロン、エディ・ゴメス、ジェレミー・スタイグ、ルー・タバキン、秋吉敏子、森山威男、山下洋輔、菊地雅章、鈴木宏昌・・・その名前を聞くと驚く。ここでの森山さんのライブ盤CD「テイク・ゼロ」は、「ゼロから勝負に出た傑作」(スイングジャーナル誌)との評価を得、音響専門誌からは「最優秀録音賞」も受賞した。多治見市の隣、土岐郡笠原町にある「スタジオF」。ライブを手づくりしてきた医師・藤井修照さんを訪ねた。
■なぜジャズ、なぜ笠原町なのですか。
ジャズっていうのは、たぶん私の体質に合っているのでしょう。笠原町は私の育った町で、今も私が医師として働く町。ミニホールを造ったのは、私自身がいいジャズを身近に聴きたいから。もちろん、地域の皆さんにも来ていただきたい。大げさに構えるわけじゃないけど、音楽を通
じて文化というか“ゆとり”のようなものを広めることができれば、という気持ちもあります。
■自身もドラムをたたかれるとか。ジャズへの思い入れはひとしおのようですね。
原点は、中学生時代に聴いた進駐軍向けの英語ラジオ放送「FEN」です。FENで聴くアメリカの音楽は新鮮でした。ドリス・デイとかローズマリー・クルーニーとか。ビッグバンドの曲もよく流れていました。不思議だったのは、いいと思った曲が半年たつと日本でもはやったことですね。大学に進んで、学内の交響楽団でティンパニーをたたいたのですが、シンフォニーなのに、ぼくがたたくとスイングしてしまう。こりゃあかんと、軽音楽部を作り、ドラムに転向しました。
■「スタジオF」に出演するビッグネームの中でも、秋吉敏子さん(作曲家、ピアニスト)は七回を数えています。出会いのきっかけは。
大学進学前に東京で一年間浪人生活し、その時、彼女の渡米直前の「さよならコンサート」を聴きに出かけました。コンサートが終わって、外の屋台でおでんを食べていたら、偶然秋吉さんもいらして、話しを交わしたことが最初です。
その後、九三(平成五)年に名古屋で行われた帰国公演の時に再びお話する機会があり、その時は既に「スタジオF」を立ち上げていましたから、ぜひにと出演をお願いしたわけです。
■ドラマー森山威男さんとの出会いも大きかったとか。
彼は「スタジオF」を造る前年の八九年に、東京から奥さんの出身地である多治見に引っ越され(現在可児市在住)、私がドラムの個人教授をお願いしました。私自身、音楽からは長く遠ざかっており、久し振りにやろうという気になったのです。
私は森山さんを世界最高のドラマーだと思っています。彼と接するうちに、むくむくと「ジャズ魂」が頭をもたげ、ホールを造ることが頭に浮かびました。だから、彼は「スタジオF」の生みの親ともいえます。
■ライブコンサートはどんな雰囲気なのですか。
「会」のようなものは作っておらず、毎回約四百人に案内を出します。開催は土曜日の午後六時半から。土曜午後は休診日に当たり、職員の手を借ります。東京や名古屋の固定ファンも手伝いに来てくれ、駐車整理、受け付けから会場設営、照明、音響まで、十二、三人がボランティアで作業に当たります。
お客さまの半数は名古屋から。あとは名古屋以外の愛知や岐阜市方面からが多く、地元東濃の人は一、二割。北海道や九州から来てくださる方もあります。ありがたいですね。
費用?有料で開催しますが、赤字続きです。黒字になったのは秋吉さんの七回のライブのうち二回だけ。満席になったのは八十二回のうち三分の一ぐらい。ダイレクトメール以外のPRは、新聞とスイングジャーナル誌にお願いしています。
「コンサートは本当にアットホーム。耳の肥えたファンを前に、プレーヤーの皆さんも燃えてくれます。音響は壁などに吸音材を張って工夫しています。開催を重ねるうちにミュージシャンとのつながりが強まり、招へい自体に特に苦労はなくなりました。」
■思い出に残るコンサートは?
九五年八月にマルが広島で原爆被災者のためにオリジナルの鎮魂曲を演奏し、帰りに「F」で森山威男さんと共演してくれました。演奏は実に精神的なもので、「デュアル」という名のアルバムになりました。森山さんは元山下洋輔トリオの一員でしたが、トリオ解散後、最初の山下さんとの“再会バトル”が九六年にここでありました。
昨年、「スタジオF」十周年を記念して私家盤の「Fレーベル」を創設し、そのアルバム制作のためのライブは四回開きました。収録は順に森山さんのカルテット、エディ・ゴメスカルテット、ルー・タバキントリオ。録音には名人・及川公生さん(東京芸術大の音響学講師)を招きました。
変わったところでは、インドの弦楽器シタールのコンサート、谷川俊太郎さんの詩の朗読コンサート、ジャズに和楽器とケーナが入ったコンサートなど。公開ライブではありませんが、森山さんのカルテットに家族や当院の職員らがコーラスで加わったコンサートも楽しかったですね。
■「スタジオF」の十一年を振り返っていかがですか。町にゆとりをもたらしたいという思いは実現できましたか。今後に向けては?
ある程度貢献したとは思いますが、地元のお客さまが、一、二割とあっては、まだまだですね。敷居が高いのかな。でもジャズは楽しいものだし、好きな人はみんな温かいですよ。秋吉さんは強さと優しさを併せ持ったすばらしい方。ミュージシャンの人格的なものにも触れていただければ、と思います。
実は私が会長を務める「豊かな東濃築こう会」という会があるのですが、そこで話題になるのが東濃の地域性。東濃は全国に誇りうる窯業技術を持ち、それが文化にもなっているのですが、この分野が優れているため、違う文化を吸収することが少なく、全体では物足りない。因習、旧幣も残っています。そのあたりを打開できれば、という気持ちです。
ライブのプロデュースでは、私もそろそろ体力が落ちており、助っ人がもっと欲しいというのが本音です。
聞き手・構成(森川洋) /
写真(市原靖子)
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